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契約の基礎知識 〜賃貸借契約の流れと注意点〜

弁護士 熊谷 則一

第1 高等学校の授業で伝えたい賃貸借契約

1.はじめに

安全で快適な住生活を営むためには、住環境に関する知識を身につけ、その知識に基づき判断することが必要です。また、住まいに関係する法律知識を身に付け、その知識に基づき判断することができれば、トラブルを避けることにつながり、ひいては、安全で快適な住生活を営むことにつながるので、これらの知識は、消費者でもある高校生にとって必要な知識であると考えられます。

東京都消費生活総合センターが平成29年度に製作した消費者教育DVD「住まいの知識は一生の知識」は、住環境編と賃貸借契約編から構成されています。筆者は、賃貸借契約編を監修しました。

高校生の中には、現在、家族でアパートやマンションを借りて生活している人もいるでしょう。また、高校を卒業してから、就職、進学、結婚等で親元を離れ、建物を借りて生活する人もいるでしょう。多くの高校生たちが、現在または将来直面するという意味では、建物賃貸借契約に関する知識は、一生役立つ住まいの知識であるといえます。

2.「原状回復義務」について

本DVDの賃貸借契約編Chapter2は、原状回復義務について考えてもらう章となっています。

ここでは、①原状回復義務の意味、②ガイドラインの存在、③特約には十分注意することなどを押さえてください。

①原状回復義務の意味

賃借していた建物からの退去時によくトラブルになるのが、借主がどの程度まで建物の修繕費用を負担しなければならないか、ということです。一般的な賃貸借契約書には、賃貸借契約終了時には、借主は物件を原状回復しなければならない旨が規定されているので、「原状回復義務」の意味を知らないと、うまく交渉できません。例えば、普通に生活していて、壁を傷つけたり汚したりしていないのに、退去時に貸主から「貸したときには新品の壁紙だったので、新品の壁紙に張り替える義務がある」といわれたらどうでしょうか?新品の壁紙に張り替えますか?

「原状回復」とは、通常損耗(通常の生活によって発生した傷み)や経年変化(時間の経過によって発生した傷み)以外の損傷を元に戻すことをいいます。最高裁判所の判決です。したがって、壁紙が経年変化によって新品とはいえない状態になっていても、それを借主が修繕する(または修繕費用を負担する)必要はありません。しかし、壁紙をわざと傷つけた場合や、誤って傷つけた場合には、通常損耗や経年変化ではない損傷ですから、借主が修繕する(または修繕費用を負担する)必要があります。

この原状回復に関する知識があるだけで、原状回復に関するトラブルでの交渉力に違いが出てきます。

②ガイドラインの存在

もっとも、どのような傷が通常損耗や経年変化にあたるのかは必ずしも明確ではありません。例えば、テレビや冷蔵庫の後部壁面の黒ずみ(いわゆる電気ヤケ)は通常損耗や経年変化でしょうか?台所の油汚れはどうでしょうか?

このような疑問を解消するために、国土交通省は「原状回復をめぐるトラブルとガイドライン」、東京都は「賃貸住宅トラブル防止ガイドライン」を作成しています。このガイドラインでは、場所や設備ごとにどのような傷が借主の通常の住まい方・使用で発生するもので、どのような傷が通常の住まい方・使用で発生したとはいえないものかを示しています。

ガイドラインを示すだけで、修繕費用をめぐるトラブルが解消することも少なくありません(ちなみに、ガイドラインによれば、テレビや冷蔵庫の電気ヤケは、通常損耗であり、台所の油汚れは手入れが不十分であって通常損耗にならないとされています。)。

③特約には十分注意すること

通常損耗や経年変化は原状回復の対象ではないということは、その修繕費用を借主が負担する必要がないということです。

しかし、賃貸借契約の中で、通常損耗や経年変化の修繕費用を借主が負担するという特別の約束をすることも認められています。このような特別の約束を「特約」といいます。

このような特約には十分注意して契約することが必要です。

ただし、本当にひどい特約(「公序良俗に反する特約」といいます。)であれば、無効となることもあるので、納得できない場合には、公的な機関等に相談できることを知っておくことも重要な知識です。

3.賃貸借契約の流れについて

Chapter3は、賃貸借契約の流れを知ってもらう章になっています。

ここでは、ぜひ、①契約締結の大まかな流れと②契約内容を理解することの重要性を高校生に知ってもらいたいと考えています。

①契約締結の大まかな流れ

コンビニエンス・ストアでの買い物では、実はコンビニエンス・ストアとの間で売買契約という契約を締結し、決済しています。しかし、契約書を作成することはありません。

他方、建物を借りる場合には、契約締結に至るまでに時間がかかり、通常は契約書を作成し、契約を締結してから必要な費用の全額を支払うまでに時間が空くこともあります。高校生には、これらの契約の大まかな流れと、その時々で注意すべきことを知っておいてもらいたいと思います。

賃貸借契約は、まず、契約締結の対象となる物件探しから始まります。快適な住生活を営むためには、実際の建物や周辺環境をよく見て、聞いて、感じて、自分が希望する物件であるかを検討する必要があり、下見が重要です。多くの人はあまり意識していませんが、家賃月額10万円の建物に2年間住むということは、家賃だけでも240万円もの支払いをするということであり、それだけ「大きな買い物をすること」と同じことです。240万円の買い物をするときには、十分に検討しますよね?それと同じです。

次に、気にいった物件が見つかって契約をするという段階では、重要事項説明をきちんと受けて、疑問点は解消するようにすることと、契約内容を理解して契約を締結することが重要です。

通常の建物賃貸借契約では、不動産業者(宅地建物取引業者)の仲介によって契約します。この場合、賃貸借契約を締結するにあたっての重要な事項については、不動産業者に所属している宅地建物取引士という国家資格を持っている者が書面を交付して説明しなければならないことになっています。この重要事項説明をきちんと受け、疑問点は質問して、後になってから「こんなはずではなかった」ということが発生しないようにする必要があります。

契約を締結した後は、代金の支払い等を行って鍵を引き渡してもらいます。さまざまな相手に対して多額の金額を支払うことになるので、契約を締結した日には一部だけ支払って、後日残額を支払って、鍵を渡してもらうこともあります。

②契約内容を理解することの重要性

建物の賃貸借契約は、コンビニエンス・ストアで買い物をすることとは異なり、日常的に行うものではありません。したがって、高校生はもちろん、多くの人にとって契約内容が容易に理解できるとは限りません。しかし、ひとたび契約を締結すれば、契約の当事者は契約に拘束されることになります。だからこそ、内容については、十分に理解して契約を締結する必要があります。

原状回復のところでご説明した「通常損耗・経年変化を原状回復の対象として、修繕費用を借主が負担する特約」についても、きちんと理解して契約を締結する必要があります。

第2 高校生に必要な契約の基礎知識

1.成人年齢の改正

日本での成人年齢は20歳です。これは民法4条が「年齢20歳をもって、成年とする。」と定めていることによって決まっています。したがって、現在の高校生は「未成年」であり、仮に未成年者が親権者の同意を得ずに契約等の法律行為をしても、その法律行為は後から取り消すことができます。十分に考えることなく契約を締結してしまっても、後から契約を取り消すことができるという意味では、未成年者は契約の場面で保護されているといえます。

もっとも、現在の通常国会(第196回国会)において、成人年齢を20歳から18歳に引き下げること等を内容とする民法改正法案が審議されています。この改正法案が可決しても、直ちに成人年齢が18歳になるものではなく、一定の周知のための期間が設けられることになります。ただ、数年のうちには、18歳が成人年齢となることが予想されます。

2.高校生に契約の基礎知識が必要となること

成人年齢が18歳に引き下げられると、高校生の中でも、成人年齢に達する者が現れるということです。高校の先生や親御さんの中には、「高校生の飲酒や喫煙が法律上認められることは困る」とお考えの方もいらっしゃるかも知れません。ただ、民法で成人年齢を18歳としても、飲酒や喫煙の年齢は、それぞれの法律で従前通り20歳のままであり、高校生の飲酒・喫煙が認められるようになることはありませんから、ご心配には及びません。

もっと重要なことは、成人になった高校生は、親の同意がなくても、完全に有効な法律行為をすることができるということです。

このことは、高校生に大人としての自覚が芽生えるチャンスかも知れません。他方で、法律行為について親の保護から外れるということでもあり、詐欺的な商法に引っかかる危険が増えることでもあります。詐欺的な商法でなくても、自分にとって極めて不利な契約条項があった場合に、未成年者であれば、「親の同意のない契約」というだけで契約を取り消すことができますが、成人の契約であればこのような取り消しはできなくなります。

したがって、今後ますます、高校生であっても、契約についての基礎知識を身につけることが大切になってくると考えられます。

3.契約と契約書

そこで、今回のDVDの「建物賃貸借契約」の締結という場面を通じて、契約の基本的な知識についても、ぜひ、解説していただきたいと思います。

①契約とは

契約とは、法的な拘束力がある合意のことをいいます。「法的な拘束力がある」ということの意味は、もし、その合意を守らなければ、裁判所の判決をもらって強制的に(つまり、国家の力を使って合法的に)その合意を実現すること(強制執行)ができたり、損害賠償を取ることができたりする、ということです。

賃貸借契約を締結すれば、貸主は目的物を貸す義務を負いますし、借主は賃料を支払う義務を負います。もし借主が合意を守らずに賃料を支払わなければ、貸主は裁判所の判決をもらって、強制的に未払い賃料を回収することができますし、場合によっては、賃貸借契約を解除して、裁判所の判決をもらって強制的に借主を退去させることもできます。

このように、契約には法的な拘束力がありますから、契約を締結する場合には、十分に、その内容を理解しておく必要があるということになります。

②契約の方法

契約は、契約の内容を示してその締結を申し入れる意思表示(これを「申込み」といいます。)に対して、相手方が承諾したときに成立します。つまり、「申込み」と「承諾」があれば、契約は成立することになります。法律に特別の定めがない限り、契約は口頭で合意するだけで成立します。「契約書」という書面がなくても、契約は成立します。コンビニエンス・ストアで買い物をするときには、契約書を作りませんが、売買契約は成立しています。

したがって、「契約書を作成していないから契約は成立していない。」などと安心することはできません。

③契約書作成の意味

もっとも、複雑な内容の契約を当事者がすべてしっかりと覚えておくことは困難です。そこで、契約内容で紛争が生じないように、また、紛争が生じた場合に契約内容を確認することができるように、契約内容を書面に記載した契約書を作成します。

契約書を作成すれば、契約内容が明確になる反面、後になってから「こんな契約内容は知らなかった」とはいえなくなります。

したがって、安易に契約書にサインせず、契約内容を十分理解した上でサインをしなければなりません。

④無効な契約

ただ、契約の内容によっては、契約が無効となることもあります。例えば、賭博等犯罪を内容とする契約や暴利的な内容の契約、正義の観念に反する内容の契約等は、公序良俗に反する事項を内容とするものであるので、無効となります(民法90条)。

4.消費者保護の法律

今までご説明したとおり、契約は、契約内容を理解した上で締結するというのが基本です。自分の権利は自分で守る必要があります。

もっとも、新しく成人になった人に限らず、高校生の親の世代の人にとっても、契約は簡単ではありません。特に、消費者として事業者と契約を締結する場合には、知識の面でも、情報量の面でも、交渉力の面でも、契約に慣れている事業者とは実質的な対等な関係ではないといえるでしょう。

そこで、消費者を保護する観点から、消費者と事業者との間の契約には、消費者契約法という法律が適用されることになっています。消費者契約法では、消費者がどこかに連れて行かれて契約をした場合や、虚偽の事実を告げられて契約をした場合には、契約を取り消すことが認められていますし、一定の不当な内容の契約条項は無効とされています。

また、訪問販売等では、特定商取引法という法律で、クーリングオフといって、後日、契約を解除することができることになっています。

このように、消費者を保護する法律があり、納得できない契約を締結してしまった場合には、しかるべき公的な機関に相談してみることも、将来成人となる高校生に伝えてください。

5.自立した消費者を目指して

自立した消費者になるためには、自ら進んで、その消費生活に関して、必要な知識を修得し、及び必要な情報を収集する等自主的かつ合理的に行動するよう努めなければなりません(消費者基本法7条)。ただ、高校生が消費者としての権利と責任を自覚し、自立した消費者となるためには、学校が果たす役割も重要です。今回のDVDの建物賃貸借契約を素材に、「契約」について高校生が考えるきっかけとなれば、監修者としてはうれしく思います。